宝暦治水、明治の三川分流


輪中の歴史
写真(しゃしん)
            せ つ 明 さつえい場所 さつえい日
コンクリートブロックによってほごされている小高く土もりされている部分が、鎌倉(かまくら)時代につくられたといわれている潮除堤(しおよけづづみ)のあとです。この堤は、昔の高須輪中内に海水が逆流してくるのをふせぐためにつくられました。この堤の北側(写真右側)部分が農地で、この堤の南側が、昔は海だったそうです。

海津町萱野(かやの) 96.08.18
これは、1754年から1755年にかけて、薩摩藩士(さつまはんし)947名が苦労に苦労をかさねて工事をした油島締切堤のあとです。この工事により、この地で木曽(きそ)川(長良川もいっしょになっていた)と合流していた揖斐(いび)川が、約2km下流まで締切堤によって分流されました。工事完成後に、この堤に日向松が約千本植えられました。今では、史跡「千本松原」として、人々の憩いの場所となっています。 海津町油島(あぶらじま)   〃
宝暦治水(ほうれきちすい)によってつくられた油島しめ切り堤は、デ・レーケによる明治の三川分流工事ほか、昭和になってからもご岸工事が続けられ現在のような油島千本松締切堤(あぶらじませんぼんまつしめきりてい)となりました。今では、国営木曽三川公園中央水郷地区となり、毎年春や秋にはたくさんの観光客が県内外からおとずれ、にぎわっています。
海津町油島   〃
1754年から始まった宝暦治水の三の手工事で、多芸(たぎ)・福束(ふくづか)・高須輪中の水害をへらすために、大槫(おおぐれ)川へ流れ込んでいた長良川の水量をせいげんする目的で、苦労してきずかれた大槫川洗堰(あらいぜき)の記念碑(きねんひ)である。 輪之内町東大槫(おおぐれ)   〃
宝暦治水で薩摩藩士(さつまはんし)が行ったであろう作業のようすを銅像で再現(さいげん)したもの。 海津町油島   〃
宝暦4(1754)〜5年に実施(じっし)された宝暦治水は薩摩藩(鹿児島県)に多くのぎせいをしいた。藩財政(はんざいせい)をあっぱくするなど大変な土木事業となった工事の総奉行(そうぶぎょう)である平田靱負(ひらたゆきえ)はその責任(せきにん)をおい、自殺した。治水神社はその平田靱負を祭神として、昭和13年に油島締切堤の付け根に建(た)てられたものです。
★平田 靱負について
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デレーケは、明治11年2月23日から3月6日まで、12日間にわたって木曽三川(きそさんせん)を踏査(とうさ)した。この時は、犬山から出発し、津島・大垣をへて岐阜まで濃尾平野を徒歩または舟で一めぐりした。この現場調査のあと、明治11年4月6日、デレーケは明治改修計画の原案となった木曽川下流の概説書(がいせつしょ)を提出(ていしゅつ)した。
★ヨハネス・デ・レーケについて
愛知県立田村船頭平   〃
ヨハネス・デ・レーケが計画した明治の木曽三川分流工事によりできた、木曽・長良背割堤(せわりてい)の写真である。木曽・長良背割堤の付け根部分から撮ったもので、この後ろに三川分流碑がたっている。
海津町成戸(なりと)   〃
明治改修における三川分流工事の完成を記念し、大正12(1923)年3月に建てられたもので、羽島市桑原町に隣接(りんせつ)する海津町の木曽長良背割堤付け根にあり、明治改修工事の規模(きぼ)に見合った堂々たる石碑である。碑には 宝暦治水を経(へ)て、三川分流を目的とする明治改修工事に着手せざるを得なかった経緯(けいい)などがしるされた。 海津町成戸(なりと)   〃


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