9.12水害の作文


災害の記録(さいがいのきろく)(当時安八町立登龍中学校2年生のY子さん)

  私は、9月12日のことを一生忘(わす)れない。
あのおそろしい日のことを。
くもり空の平和な朝にけたたましく鳴ったサイレンの音を。

 ウーウーウー、私はその時、雑誌(ざっし)を見ておかしを食べていた。(何だろう、火事かな。いやだなー)と、外へ出てみる。しかし、火事の気配(けはい)はない。しばらくすると、「長良川の堤防がけっかいしました。ひなんしてください!!」というスピーカーの音がひびきわたった。わたしはガン!!と頭をなぐりつけられた。そのひびきはわたしの頭の中に広がった。わたしは(まさか、切れるなんて。でもどうしようどうしよう。)という気持ちと(反対に信じられない。ここまで水がくるもんか。)という気持ちで混乱(こんらん)してしまった。
 そんな時、父が、勢(いきお)いこんで帰ってきた。南条のしんせきから・・・。私は、父の
「うちはだいじょうぶ。避難(ひなん)せんでもいい。それより早く、下の物を上へ上げるんや!」
という言葉に、どれだけ元気づけられたことか。
 せっせと運んでいるとちゅう、ふと窓を見る。すると白くにごった水がどんどん近づいてくるのがはっきりとわかった。ていじん付近はもうまっ白。母も兄も父も、ただ、おそろしいという気持ちで見つめていた。
 大半の物は上へ上げたと思ったころには、水は池の水とまじって家の中に入ろうとしていた。それからの水は言うまでもなく果てを知らぬかのように増(ふ)えてきた。
 昼食もとらずに、ただぼうぜんと外を見つめる兄と私。母と父は、どんどん増える水の中をそれでもまだなにかあるのか、いっしょうけんめいに上へ下の物をあげていた。私はその二人を見つめながら(2階まで水がきたらどうするのよ。上げた物も何もかもみんなだめじゃない)というはげしいきょうふにふるえた。そして、頭の中に、いろいろなことがうかんでくるのだ。(学校、南条のしんせき、友達の家。みんなどうなったのだろう。私の家よりひどいのだろうか。ああ、ほんとうにたいへんなことになってしまった。これからどうしたらいいの。)この思いはよけいに私の気持ちをこんらんさせた。そして、私はふりきるように外に出た。するどいヘリコプターの音がした。にげおくれた人を救助(きゅうじょ)しているのだった。かごに乗って運ばれていく人たち。私はそれを見てほんとうにかわいそうだと思った。きのみきのままでにげてきた人たちはこの先どうするのだろう。たまらないさびしさとむなしさにおそわれた。
 道路は、水をうらめしそうに見つめるにげてきた近所の人で、いっぱいだった。その人たちは、口々にその時のことを言い合っていた。私は(私の家なんてまだ助かったほうなんだ!私はあの人たちにくらべてどんなに幸せだろう。)と思った。
 家に入ってみても、1階に水が入っているかと思うと、それはどうしてもいごこちのよいものではない。なんだかういてきそうで・・・。
 私はラジオを持ってきてスイッチをひねった。どの局でもかわるがわる長良川決かいのことと、安八町のようすについて話していた。それを聞いて、(ああ、そうとう大きいひ害なんだ。)としみじみ感じた。
 なんだかんだで、日がくれて夜になった。てい電していたのがつくようになり、私たち一家は、テレビをむ中で見た。ニュースをやっているところをさがして・・・。やはり、どの局でも長良川の決かいのことばかり放映(ほうえい)していた。私の知っている人も母の知り合いも画面に出た。田も家もみんなどんぶりと水につかっている姿ほどみにくいものはない。悲(かな)しいものはない。まるでおもちゃのような風景(ふうけい)に、私はジーンと悲しみがこみあげてきた。(水はこれから引いていくんだろうか。ひかなかったらどうなるんだろう。)私の不安と心配はどんどん深くなっていった。ごはんなんてもちろんのどを通らなかった。そして、12日は終わった。
 今、私の家は水も完全(かんぜん)にひいて、色々なものの整理(せいり)もいちおうすませた。父は毎日、南条のしんせきへ手伝いにいっている。いつになったらもとの平和で美しい緑の安八町になるかわからない。けれど私は、この経験(けいけん)が一生のうち、いや、安八町にとって最初で最後であることを願いたい。こんなむごい経験を二度としたくない。


 (9.12水害の恐ろしさを後世に伝えるために、ここに掲載させていただきました。ありがとうございます。)
(注意:著作権者のデータが含まれていますので、このシリーズのデータを利用したソフトの流通は不可です。使用条件:学校教育においてのみ使用可)


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