平田靭負について
「平田靭負(ゆきえ)という人について
宝暦治水につくした平田靭負(ひらたゆきえ)
平田靭負像(三重県桑名市海蔵寺)
平田靭負は薩摩国(さつまのくに、現鹿児島県)で生まれ、家老となり、宝暦(ほうれき)3年(1753)木曽川下流地域の堤防工事であるお手伝い普請(ぶしん)の江戸幕府の命令(ばくめい)に対し、幕府と戦争しようという他の家臣をおさえ、「どうせ死ぬのなら、水難(すいなん)に苦しむ民百姓(たみひゃくしょう)をすくうために命をかけようではないか。それが、薩摩武士のほまれを末永く残すことができるのではないか。」などとうったえて、薩摩藩の意志を「宝暦のお手伝い普請」を受ける方向にもっていったそうである。そして、自ら総奉行(そうぶぎょう)となって美濃(岐阜県)の地におもむきました。 947名にのぼる薩摩隼人(さつまはやと)を率(ひき)いて工事を進めましたが、きびしい幕府(ばくふ)の役人の監督(かんとく)と異郷(いきょう)の地(ふるさととは別の土地)におけるふなれな土木工事のために、多数の犠牲者(ぎせいしゃ)を生みました。また、ばく大な工事費の出費(しゅっぴ)は、薩摩藩の財政(ざいせい)をとても悪くさせました。その責任(せきにん)をとって靭負は、宝暦5年(1755)5月24日、国元(くにもと)あてに工事がすべてとどこおりなく終わったことを報告(ほうこく)する手紙を書き、その翌(よく)25日未明(みめい)、大牧村(養老町大巻(おおまき))役館(やっかん)でなくなりました。 |
(注)この文は、『岐阜県の人物とその生き方』(岐阜県小学校社会科研究会発行)より、引用したもの。