平田靭負に関する答え

(99.01.26作成)


「平田ゆきえという人は治水工事の大事業をしたそうですがそのときの仕事ぶりが分かるような語りつがれている話が残っていれば教えてください(エピソード)。」についての答え

1.宝暦治水につくした平田靭負(ひらたゆきえ)

 平田靭負は薩摩国(さつまのくに、現鹿児島県)で生まれ、家老となり、宝暦(ほうれき)3年(1753)木曽川下流地域の堤防工事であるお手伝い普請(ぶしん)の江戸幕府の命令(ばくめい)に対し、幕府と戦争しようという他の家臣をおさえ、「どうせ死ぬのなら、水難(すいなん)に苦しむ民百姓(たみひゃくしょう)をすくうために命をかけようではないか。それが、薩摩武士のほまれを末永く残すことができるのではないか。」などとうったえて、薩摩藩の意志を「宝暦のお手伝い普請」を受ける方向にもっていったそうである。そして、自ら総奉行(そうぶぎょう)となって美濃(岐阜県)の地におもむきました。
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2.おもな足跡

    年  月  日      主 な で き ご と
1703  薩摩国で生まれる
1735  父の隠居(いんきょ)により家督相続(かとくそうぞく)
1748  家老職(かろうしょく)となる
1753年11月  幕府(ばくふ)、薩摩藩に三川分流工事を下命(かめい)する
1754年 1月  治水工事総奉行(そうぶぎょう)に任命(にんめい)され、947名の藩士(はんし)とともに美濃(みの)へ向かう
       2月  工事に着工する
       6月  洪水により堤防が破損(はそん)する
1755年 5月  工事の完成(かんせい)を幕府に報告(ほうこく)、幕府が検分(けんぶん)をおこなう
       5月25日  平田靭負、没(ぼっ)する

3.エピソード

 平田靭負は幕府の命令に対して主戦論(しゅせんろん)一色となった藩の評定(ひょうじょう)の場(重役会議のようなもの)で、次のような話をして一同をさとしたそうです。
 「縁(えん)もゆかりもない遠い美濃の人々を水害の苦しみから救(すく)う義務(ぎむ)はないかもしれないが、美濃、薩摩と分けへだてすることなく美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題(むりなんだい)と思えば腹(はら)もたつが、日本国のために、同胞(どうほう)の難儀(なんぎ)を救うのは人間としての本分であり、徳川幕府が相手(あいて)ではなく、木曽の三大川を相手に戦うのである。耐(た)えがたきを耐えて日本国のために命を捨(す)てるのなら、お家安泰(あんたい)のもとになるばかりでなく、薩摩武士のほまれを末永(すえなが)く後世に残すことができるのではないか。」
 この崇高(すうこう)な思想に接して、その場にいた一同は感激(かんげき)の涙(なみだ)を流したということです。

4.問い合わせ先

 (注)この文は、『岐阜県の人物とその生き方』(岐阜県小学校社会科研究会発行)より、引用したもの。



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