羽根谷巨石堰堤について
これは、岐阜県海津市南濃町駒野奥条(おくじょう)入会(いりあい)にある「羽根谷巨石堰堤(はねだにきょせきえんてい)」です。これは、デ・レーケが提案したことによって、できたそうです。明治24年(1891)3月に建てられた「羽根谷築堤記」(記念碑(きねんひ))には、次のように書かれています。
「美濃国下石津郡西駒野村(みののくにしもいしづぐんにしこまのむら)、奥条村、共有山渓(さんけい)あり、羽根谷という。白石らいかい、しこうして淫潦(いんりょう)ひとたび至(いた)ればすなわち激水(げきすい)岸を決し、流亡(りゅうぼう)の害、歳としてこれ無(な)きはなし。けだし樹木を濫伐(らんばつ)するの致(いた)すところなり。明治11年1月、内務省(ないむしょう)吏(り)を遣(つか)わして工をおこす。土砂(どしゃ)の流下するは苗樹を植えてこれをふせぎ、瀉水(しゃすい)の侵衝(しんしょう)するは石堰(せきえん)を築(きず)きてこれを防ぐ。明治24年3月に至りて竣工(しゅんこう)す。その工費3万9789円88銭なり。今や植樹は繁茂(はんも)し築石堅牢(ちくせきけんろう)にしてまた流亡の虞(おそれ)なし−以下略−」
羽根谷巨石堰堤(第1号堰堤)は、百年が過ぎた今も幅約52m、高さ約12mの巨大な姿を見せています(真ん中右に白い服を着て立っている人の身長から、巨石堰堤の大きさがわかるでしょう)。そして、昔と変わらない防災効果をはっきしています。デ・レーケの偉大(いだい)さがよく分かります。この羽根谷の砂防工事も「木曽川下流改修」を成功させるための工事でした。
○参考文献(ぶんけん)
・『砂防に挑んだ人たち』(南濃町役場)