ヨハネス・デ・レーケに関する答え
(99.01.31更新)
「デレーケさんについて詳しいことがわかれば教えてください。」についての答え
A:くわしくは、下記参考文献をお読みください。かんたんに説明します。
ヨハネス・デ・レーケ |
(提供:国営木曽三川公園内水と緑の館、中部地方建設局承認)
1.ヨハネス・デレーケに関する主な足あと
年 | で き ご と |
1842 | オランダ国のコリンスプラートに生まれる。 |
1873 | 来日する。 |
1878 | 技師デ・レ−ケは、まねかれて分流のための調査をはじめる。 |
1887 | 第一期工事はじまる。木曽川すじの海津町成戸(なりと)から日原(ひわら)まで、木曽川と長良川を中堤で分流する。 |
1896 | 第二期工事がはじまる。第一期より南の三川の中堤や新堤をつくる。 |
1900 | 第三期工事はじまる。松の木より上流の揖斐川すじをまっすぐにして、新堤をつくる。 |
1903 | オランダに帰る。 |
1912 | 全部の工事でき上がる。 |
2.ヨハネス・デレーケの業績(ぎょうせき)
明治政府は西洋(せいよう)の学問・技術の輸入・国内制度(せいど)等の整備(せいび)のために、西洋の国々から大金をはらって外国人をやといました。その一人にデレーケがいました。 明治6年(1873)に来日したデレーケは、大阪淀川の上流部の調査(ちょうさ)を始めました。同8年には、京都府相楽郡の不動川に石積みの砂防堰堤(さぼうえんてい)をきずきました。そして、同11年2月、木曽三川流域調査に、12日間この地をおとずれました。この調査結果を「川を治(おさ)めるには、まず山を治めるべしという彼の信念(しんねん)に基(もと)づき、『木曽川概説(がいせつ)』にまとめ、内務省に報告しました。これに基づき、三川流域の治山工事が始まりました。ここでも、彼は、次の3つの提案(ていあん)をしました。
(1)山林の樹木を、むやみに切ることの禁止(きんし)
(2)樹木(じゅもく)の植えつけ、栽培(さいばい)
(3)砂防工事の実施(じっし)
これは、岐阜県海津郡南濃町駒野奥条入会にある「羽根谷巨石堰堤(はねだにきょせきえんてい)」です。これは、デ・レーケが提案したことによって、明治24年にできたそうです。羽根谷巨石堰堤(第1号堰堤)は、百年が過ぎた今も幅約52m、高さ約12mの巨大な姿を見せています。そして、昔と変わらない防災効果をはっきしています(右の写真をクリックしてください)。 |
「木曽川下流河川改修」の本格的な工事は、明治20年から始まりました。工事は4期25年におよぶ大規模(だいきぼ)なものでした。
主な工事内容は、次のようなものです。
@木曽三川を完全に分流する。
A佐屋川を締(し)め切って川をなくす。
B立田輪中に新たに木曽川新川を造(つく)る。
C大榑(おおぐれ)川、中村川、中須川をしめ切る。
D高須輪中に新たに長良川新川を造る。
E油島洗堰(あぶらじまあらいぜき)は完全にしめ切る。
F船頭平に閘門(こうもん)を造る。
G木曽川等の河口に導流堤(どうりゅうてい)を造る。
H水門川・牧田川・津屋川の揖斐川への合流点を下流に引き下げる。
この工事が終わってから、水害はいちじるしく少なくなりました。 滞在(たいざい)30年、日本の河川改修(かせんかいしゅう)に一生を捧(ささ)げたデレーケは、明治36年、日本を離(はな)れました。デレーケは、わが国の「治水の恩人(おんじん)」と言ってもよいでしょう。
3.エピソード
1879年妹のエルシエ、1881年に妻(つま)のヨハンナが亡(な)くなりました。妻が亡くなって約1か月後には木曽川流域に来て、現地調査をしました。それで、当時誰もが「彼は仕事の鬼(おに)」だと思ったそうです。しかし、後で見つかった手紙を読むと、「日本の技師たちは、私を非常に気の毒(どく)に思って、パーティなどを開いてくれるのですが、本当は家でじっと妻のことを思っていたかったというようなことが書いてありました。また、内務省から、有給の帰国命令を受け、オランダに帰って心身の休息(きゅうそく)を図(はか)りました。しかし、オランダにいても治水工事のことを忘れず来日する時には、浚渫船(しゅんせつせん)を手配して戻(もど)ってきたそうです。本当に真心をもって仕事に一生を捧(ささ)げたデレーケでした。
4.参考文献(ぶんけん)
○『砂防に挑んだ人たち』(南濃町役場)
○『デ・レーケとその業績』(建設省木曽川下流工事事務所)など
5.問い合わせ先
南濃町役場 TEL:0584-55-0111 〒503-0411 岐阜県海津郡南濃町駒野奥条入会99−2
砂防遊学館 TEL:0584-55-1110 〒503-0411 岐阜県海津郡南濃町駒野奥条入会
建設省中部地方建設局木曽川下流工事事務所 TEL:0594-24-5715 〒511-0862 三重県桑名市大字播磨字沢南81
木曽川文庫など
(注)この文は、『岐阜県の人物とその生き方』(岐阜県小学校社会科研究会発行)より、引用したもの。