写真(しゃしん) |
タイトル |
せ つ 明 |
さつえい日 |
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歴史民俗資料館 |
海津町の昔の様子やむかし使われた道具、輪中にかんする資料がたくさんてんじされています。手前に見えるのが、復元された船着き場です。水郷と呼ばれたこの地域では、昔は揖斐川などの舟運(しゅううん)がさかんでした。伊勢湾を経由(けいゆ)して名古屋や桑名、伊勢の物産が運ばれていた際使用された船着き場です。 |
97.08.21 |
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復元された堀田 |
低地では、水につかりすぎて米の取れ高が少なかったので、収量をふやすために沼田(ぬまた)の一部をほりとってとなりの部分を高くしました。これをほり上げ田(堀田)と言いました。1954年から1969年にかけて行われた県営うめ立てかんたく(土地改良)事業により、海津町でも堀田は見ることができなくなりました。そこで、海津町歴史民俗資料館がつくられる時、そのしき地内に堀田が復元されました。一見の価値あり。 |
97.08.21 |
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定杭のもけい |
定杭(じょうぐい)は、水をめぐって対立してきたりんせつ小輪中の間にある堤の高さを話し合いで取り決め、輪中堤の高さを示すためにうった杭のことです。堤防横に堤防の高さと同じ杭をたて、5年ごとにあらためられました。この杭の高さが堤防の工事をしたり、土のうをつむときのきじゅんとなりました。 |
97.04.24 |
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水防えん習のもけい |
輪中地いきには、大水にそなえて水防団がそしきされていますが、水防団員もふだんは別の仕事をしているので、年に2日間、いざという時にそなえて写真のような水防工法のくんれんをしています。月の輪工、むしろばり工、シートばり工、杭打積土俵工(くいうちつみどひょうこう)などの工法があります。 |
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水がめ |
昔の農家にあった水がめである。ここに水をくんでおき、飲み水や料理に使いました。水屋にもこのような水がめを置いて、洪水の時にひなんした場合に利用しました。 |
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なえ舟 |
昔、堀田があったころ、このような小さな舟に苗(なえ)をのせて運び、田植えをしました。沼地のような堀田を苗をとるためにたびたびおうふくすることは、たいへんな苦労でありました。この苗舟も、低地に生きた人々の知恵の産物です。 |
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上げ仏だんのもけい |
洪水多発地帯であった輪中地いきには、いざしん水という時にそなえて、住まいにも工夫がしてありました。洪水の時だけ、かっ車(新しい物はチェーンプロック)を使って二階へ引き上げる仕組みを持った仏だんがあります。それを上げ仏だんといい、これは、そのもけいです。ご先祖(せんぞ)様を大切にするこの地方の人々の気持ちがよくわかります。 |
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水防し材1 |
水防作業のための資材がてんじされています。石みや土のう袋、たこつち、なわ、3m、4m、5mくいなどが見られます。 |
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水防し材2 |
水防作業のための資材がてんじされています。かま、かけ矢、マサカリ、スコップ、pp土のう袋、むしろ、杭などが見られます。 |
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平田靱負胸像 |
1754〜55年にかけて行われた宝暦治水(ほうれきちすい)の総奉行(そうぶぎょう)です。美濃(みの)の人々を救(すく)うためにはるばる遠い薩摩国(さつまのくに)(現鹿児島県)から947名の武士を引き連れて、木曽三川(きそさんせん)下流部の治水工事に命をかけた人です。 |
98.04.22 |